昭和47年9月1日 月次祭御教話



 今日、この、末永先生が学院の、当時の同期の方で大牟田の教会に関係のある、そちらに見えられて、まあ合楽で四・五日でもお話を頂きたい、まあ修行さして頂きたいと言うて、今日夕方見えました。それで、まあちょっとの時間でしたけれども、いろいろお話をまあ、聞いたりさして頂いたりさして頂いたんですけれども。
 もう随分長く本部の方で信心の、ひとつの焦点というか、「御取次成就信心生活運動」という、まあ運動が会されて、もう相当の年月をお立ちになります。その事を、あれは下田博士ですか?宗教学者の。と、言うとる。が、その事を聞かれて、もう大変に感心されましてね、御取次成就生活運動、その内容のね、素晴らしいことに、もうびっくりされた。 もう金光教で、えー、金光教の、まあ信心ならではと。まあその、私どもはそれを内容的には詳しく知りませんけれど。こりゃもう大変な事。これが世界中に、まあ広がっていく、そういう、まあ、普遍性というかね、をもっておるものですから、まあびっくりされる程しにあらゆる宗教の勉強をなさった、しかも専門的にそれを専攻なさった方ですから、まあ感心された。
 それから二年後にまた本部を訪れられましてから、本部での、いわゆる御取次成就生活運動という、その運動が展開されて、その結果どういうふうでございますか、と言うて質問になった。ところが、全然、その、なら、進展しておるという内容にそのような素晴らしいことを持ちながら、それが、あー、いや、むしろもう何十年になりましょうかね、えー、かえって、こう…。御取次成就生活運動と言いながらです、運動をしておりながらです、それが、一向、御取次成就になっていないということがね、また、大不思議だと言うておられたということを聞きました。
 なぜそんな素晴らしいことが徹底していかないのだろうか。広がっていかないのだろうか。まあ分かりやすく言うと、いわゆる天地金乃神様の御願いというか、ね、氏子にかけられる願いというか、そういう願いが生神金光大神の御取次ぎの働きによって世の中の難儀な氏子に取り次がれる。そこに人間の幸福があるのだと。
 天地の親神様の御心を、いわば金光大神が取り次いで下さる。また、氏子の様々な難儀な願い、そういう願いを、また天地金乃神様にお取次ぎを下さる。そういう働きが、いわゆる金光大神の働き。
 世の中にどれくらい難儀な氏子があるやら分からん。また、神様の願いも、それこそ切に止むに止まれないもの。どうぞ信心しておかげを受けてくれよと。こういうあり方、こういう生き方になっていけば人間が幸福になっていけれる道を金光大神に伝えておいたから。金光大神の言うことにそむかぬよう信心をしていって幸福になってくれよと、こういうわけ。
 そういう例えば、素晴らしい運動が、金光教の芯の、いわば本部を軸としてです、展開されておるにもかかわらずです、それが例えば宣伝なら宣伝だけで買い手がないといったようなことはね、どういうことであろうか。ね。私は思わせて頂くんですけれども、その御取次成就ということがです、ひとつ焦点がね、えー、違っておるのじゃなかろうか。
 最近ここでは、和賀心時代を創るという、いうなら運動が、まあ展開されております。ね。合楽の、いうならば教会を中心にして。これは、けれども全教の信奉者のことごとくが朝晩、天地書附を奉唱さしてもらい、生神金光大神 天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあるという、その和賀心なのです。
 毎日唱えさして頂いておりながら、私は、その和賀心というものに本気で焦点を置いての信心修行というものがなされないところから、ね、ただ唱え言葉になっておるだけで、実際に和に、賀に、心にならせて頂けば、おかげがあると仰せられるおかげが伴うてくるのですけれども。それが実際の上に現れていない。
 例えば、いろいろな運動が起こされる時に、ね、その運動に参加するその人自体が、その主義に、やはり奉賛しなければならない。その生き方に賛成しなければならない。その生き方を、ほんとに素晴らしいと体験しなければならない。そういう思い込みもなしに運動したところで、それは人に伝わっていくはずは絶対にない。ね。
 そこでです、合楽で言うておられるところの和賀心時代を世界に、というスローガンのもとに合楽ではお互い信心の稽古をさせて頂いております。その和賀心にならせて頂くことの為に、その和賀心という、そのことだけの為に二十幾年間、いうならば教祖のみ教えを元にして、説きに説き、まあ明かすということはとても出来ますまいけれども、説き続けておるという事でございます。ね。
 ですから、皆さん自身が、そこに焦点が置かれ、ほんとに和賀心ということをです、あらゆる角度から自分の心の上に写していき、頂いていく。なるほどこういう心の状態になれば、このようなおかげが受けられるという実証者であらなければならないということ。ね。
 先ほど、おー、委員長先生が話しておりましたようですね。えー、今度松影会で、うーん、久留米で鹿児島の行徳先生を講師に一日信心のお話を聞いたり、または、お互い信心の共励をし合うということだそうでございますけれども。
 もう昨日と一昨日、二日間ここの筑水連合会の二十何軒の教会長先生方が全部集まって、それで、私が行きませんから若先生がおかげを受けた。えー、今度の会は、もう合楽の信心を中心にしての会合でございました。どうして二日間もそんな話し合いがあるかって言うて私は。ところがやっぱり熱心にそれを検討する。未信者に対するところの布教方針。合楽ではどうして、えー、信者が新しくどんどん増えておるか。実際はどんどん増えておりもしませんけれど(笑)。まあ、何とはなしに、その生き生きとしておると。どういう布教をしておるか、ということを話してくれというので、えー、先生方を前にして若先生がお話をいたしております。
 その中に、わざわざその、未信者に対して布教ということはです、というような、例えば働きというものは、合楽ではしておりませんのです、実は。未信者に対して呼びかけるといったようなことはあってはいない。けれども、やはり未信者の人が助けを求め、救いを求めて来る、お取次ぎを願ってくるという場合にはです、必ずおかげを渡される。いわゆる、おかげの印しが見える。その時には、うちの親先生は斯くお取次ぎなされるという話をしたそうです。
 初めて参ってきた人には、ね、それはそのことばかりじゃありません。いろいろありますけれども。とにかく、ね、神様とおかげは、下さるのは神様。ね。それを取り次いで下さるのが金光大神。おかげを受けるのは、お互いなのです。
 ですから、この三者がね、ひとつになって繋がる、ひとつのおかげのルートというものが必要なんです。そこで、おかげのルートを、何がなしかやはり作ってやらなければ、おかげが生まれてこない。そこで、これならば未信者の者でも分かるだろう。これならば天地の親神様との交流も出来るという話をなさる。まあ、主になさるのは、どういう事かというと、ね、本気で親孝行しなさいということでした。
 誰も親不孝しようという者はおりませんけれども、もう本気で親に喜んでもらわにゃおれんというほどしの心を、いわゆる燃やすというほどしのしの人は少ない。そういう人が昔から孔子と言われえる人である。あの人は親孝者だと言われるのはそういう。ね。親に孝行しなければおられない。ね。
 例え、この寒中に筍食べたいという、例えば親がおったといたしますならば、この寒中にどうして筍があるか、と言わずに、親が言われるのであるから、本気で筍を掘るという気になるということ。そして、掘ったけれども無かったと言やいい。堀りもせんどいてから、うーん、こげな時に筍があるかと、いうような。
 これは、支那の二十四孝のね、いわゆる孔子伝です。ね。筍掘り。お芝居なんかにもあります。ね。ところが事実はです、筍は無かったけれども、自分自身が長年探し求めておった物がそこに埋けてあった。ね。ですからね、その、神様の天地の願いというか、ね。私どもの願いというか。その願いと天地の願いとが一つになる道を、やはり高じなければならない。それには、御先祖を大事にしなさいよ。ね。親を大事にしなさいよ。いや、ほんとに親に孝行さして貰わなければおられん。今日は帰ったら早速御仏壇のお掃除をなさい。お花の水を変えなさい。ね。というような御取次ぎをなさる。
 その事がです、ね。その事が、天地の機感に適うから。天地の心に適うから。そこにルートが出来る。はー、ほんにそげん言われりゃ、親不孝しようとは思うとらじゃたけれども、親孝行ばしょうごとしてたまらんという気ではなかった事に、翻然と気付く。これは、未信者でも話は分かる。ね。そしておかげが頂けれる。おかげが表れてくる。おかげのしるしが見えてきたら、また出ておいでと。いうのが合楽の初めて参って来た人に対するところの、うーん、これは御取次ぎです。そういう話をしておる。ね。
 まあ、未信者に対するところの特別の、うーん、働きかけということはしたことはないのだけれども、本部の方で、このパンフレットを、あれは、何円かね?二円か三円かで買わなければ。あれを何千枚かかわせて頂いた。そして、その少年少女会(まるしょう)が、あー、それを受けて、で、その、配布をした。だから、それを配布するだけではなくって、いわゆる御取次成就信心生活運動のことがいろいろと書いてある。
 けれども、何とはなしに、み易いごとして難しか。あれは本部んとはどうもそげなふうです。み易う言うちゃあるけれども、実を言うたら大変難しい。み易いことを難しゅう言うちゃる。合楽の場合は反対のごとあるですね。大変難しいことをみ易う言いよるような感じがする。
 そして、えー、中に、ちょっとしたチラシを作っとる。ね。第一、病気で難儀をいたしておる人はありませんか?お金に不自由しておる人はありませんか?経済関係、人間関係で悩んでおる人はありませんか?ね。もうそれこそ、自分が世の中で一番不幸せだと思うておるような不幸せな人はありませんか?そういう人がありなさるなら合楽に一遍尋ねて来て下さい、というような内容を書いたチラシを配った。これが二回そういう事があった。本部からそういう物をパンフレットが出たんです。
 だから、そのパンフレットだけではなしに、そのパンフレットのような物の中に、それを挟んでしたというのが、まあ、未信者に対するところの布教というなら、そのくらいな事だと。これは、それでも大した効果はなかったという意味のこと。はー、ところがそれが問題なんです。そのチラシを持って行って話をした。先生が、若先生が話した後に質疑応答がある。ね。それで、いろいろのその、まあ、大変合楽風のことを言っとりますから、それはどういう意味か?と。第一、成り行きを大事にするというような事はどういうようなことか。思いを、急いで思いをそこに稽古をするといったような事も言うたんです。というような事はどういうような事か。それを、まあいろいろと、説明をさせて頂いた。
 ある先生方は、けしからん。こういうような、いわばチラシを出すならば金光教が如何にも低級なごとある。病気の人やら、金に困っておる人やら、いる難儀な人が、なら、ね、金光様の御取次ぎを頂いて下さいと、いうようなことを言うなら金光様の、いうなら恥になるというて、大変悪く言うた先生があった。そしたら、もう若先生がそれを説明しようと思うたら、もうそれを取って置くようにしてね、二日市の先生の千種先生といや、九州でもう教学の大家と言われるくらいに教学者。が、その事の素晴らしいことをです、説かれたそうです。
 もう合楽はようこそそういう事をやってもらった。お互いがやりたいのだけれども、やれんだけだと。ほんとに金光様のご信心で、病気が助からんとか、経済関係で難儀しとる人が助からんとか、もうほんとに人間の求めて求めてやまない、その難儀をです、金光大神の御取次ぎによって助けられることの働きというものが出来るのが金光教だと。それが、今の教会は出来なくなっておるからそういうことを言うのだ。合楽の言うことが本当だと。もう皆が、その、だんだん分かってきたという。
 というようにですね、もう最近はどこに行っても会合には、必ず合楽の信心が中心になる。そこで、合楽に御縁を頂いておる人達が、事実です、おかげを頂いて、もうとにかく口を開けば和賀心。あらゆる御理解を頂くけれども、その御理解が、その和賀心にならせて頂くことの為のみ教え。もう教典の全て、がね、この為にあるとさえ合楽では言っておるわけなんです。ね。 それを、なら、二十幾年間、なら説き続けておるわけなんです。
 そこでお互いがそれを頂かなければならない。ね。そして、それを現していくということが運動なんです。ね。道の人、分からない人には、なかなか難しいけれども、ね。金光様のご信心を頂いておっても、金光様の信心の、信心が、ある意味でおかげを受けると意味においては地に落ちておるような状態であるから、それは和賀心を焦点にしないからだ。和賀心ということを焦点にしての信心の稽古が出来れば、もう和賀心におかげがあると、教祖金光大神が確約をしておられるのだから。おかげが頂けるんだということをです、ね。
 先日の小郡の教会なんかでは、その話が出た。ちょうど、その、おー、班別懇談の時に、えっーと、合楽の方達が一人づつ入って、まあ大変おかげを頂いたと言う。私はその時に感じた。これはお互い和賀心時代を創ることの為の運動委員に、お互い一人一人がならなければならないが、これはこういう会合には、もういよいよ進んで出らせて頂いて、皆がおかげの頂けれる信心を語らなければいけない。
 御取次ぎ成就信心生活運動とは、そういう、例えば具体的に言うと、和賀心に焦点を置いたところの、私は運動でなからな…、たらば、いわば広がっていかないんじゃないかと思う。あんまり難しいこと言うたっちゃ分からん。そんなら、和賀心にさえなりゃおかげ頂くですねと、まあ簡単なことですけれども、なら、それを、より勉強致しますとなかなか難しいことですけれど。その姿勢にならせて頂いただけでおかげが頂けるから不思議です。
 本気で今日も、神様、和賀心にならせて下さい。和らぎ賀ぶ心にならせて下さいという、そういう姿勢になっただけでおかげは頂けれるのだ。和賀心になってしまわなければ、ということではないのだ。ね。
 その事をね、ある難儀な問題を、こういう問題があるが、皆さんどう思うてくださいますかと、言うて発表があった時に、野口さんが自分の体験を話された。帰りがけには、野口さん所へ来たら、今日はもうおかげ頂きました。今日が裁判かなんかがあって、ワリワリ喧嘩して、夫婦でです。ほんとに。で、喧嘩をしなければならないような問題をです、野口さんのお話を頂いて、いかんで済む、おかげが、心が、心の状態が出来たと言うて、まあ喜ばれたということでございます。ね。
 もうほんとに、いわゆる、御取次成就信心生活運動がです、そこに、もう展開されておるわけです。そのようにして。して、おかげを頂いて有り難いと。だから、金光様の信心をしておるほどしの人ならばです、分かりが早い。それでいても、おかげが受けられんで、ね、信心しておる人達にです、合楽の信心をです、皆さんが、ね、聞いてもらう。ね。そういう、ひとつの運動に参加させてもらっておるつもりで、ね、私は、ああゆう、そういう会合にひとつ大いに出らせて頂いて。そして、自分だけが助かる…人の為、我の為に、私はそういう御用をさせてもらわなければいけないというふうに思うのです。
 今日は、もう大変、えー、有り難い秋山さんところのお祖父さん。光橋先生達のお祖父さんにあたる方の御霊さんの御祭りをさして頂きましてね。ほんとにそれは、素晴らしい有り難い御祭りでした。それがね、もう、やっとかっとで出来た御祭り。だから、やっとかっと出来たっじゃけん、もうほんに神様も、おー、ちーったイライラしなさったじゃろうか、御霊様も喜びなさらなじゃったろうかという、そん、やっとかっと出来た御祭りが、もう何ともかんとも言えん程しの内容になってきた。ね。
 もう親とか迄はいいけれども、祖父さんということになると、もう五十年祭。五十年の式年祭。ね。それが、いうならば秋山家一同の方達がここに集まって、まあ、なさった訳ですけれども。
 私が御心眼に、この破れ饅頭を、の、こう破れたところ。だからその、あり方そのものは破れとる。なっとらんと。やっとかっとじゃ。けれども、その内容たるは、もう餡子が、こう飛び出して、それこそ甘い物が好きな者ならば、もうほんとに、これがなるごたる感じでしょう。あの破れ饅頭を見ると。甘い物が好きな人が見る。というようにいうならば味わいのある御祭りが出来た。ね。
 だから、私どもの信心がです、なら、まーだ私どもは和賀心も頂いておらんけんで、まーだおかげも頂いておらんけんでと、言わずに、実際におかげ頂いとらんのか、おかげ頂いておるのであるから。
 やっとかっとの、そんなら、和賀心時代を創る運動員を、やっとかっとであってもいいからです、それが行の上に、やっとかっとでも現される時にです、神様が何とも言えん味わいというものをそこに作って下さる。
 来がけにも、何か、えー、卸しに来たか、野菜屋さんか何か、卸しに来た人が自動車で、その、六人かの方達を皆んなここに送ってくれた。帰りもちょうど、御祭りの終いがけに北野の堤さんがおい出て見えられました。それで、堤さんが北野から来た方を皆、乗せて帰ったと。もうほんとに、そこに御霊の働きというか、神様のお喜びをそこに感じずにおられないほどしのものをです、ね。
 もう中風で、手もこう、足もこう震うて、歩ききらなんようなお祖父さんも来てございました。ですから、もうほんとに、こうやって、あの、ね、そこからそこまで、あの、おー、まあ、抱いて来られるような感じでお参りが出来ておられる。ね。だから、そういう、そこに生きた神様をすぐ側に感じれれる程しのおかげが頂けれる。それを、やっとかっとの御霊様の御祭りではあったけれども、ね。そこに日頃の、例えば秋山さんとか、三橋先生あたりの日頃の信心がものをいう事でもございましょうけれども。ね。それが何とも言えん味わいの働き。やっとかっとでも良い。なると神様がそこにおかげを、ちょっとおかげにして下さる働きがある。ね。
 和賀心時代を創るという、そら大変なことであるし、難しいことなんです。けれどもです、私どもが本気で今日も和賀心にならせて頂こうという姿勢を、そこに作って、やっとかっとでもええ、失敗しながらでも良い。そのことに焦点を置かして頂く。それは、今日もまた失敗をしたと、破れるかもしれんけれども、その心根は、何ともそう思うとる。朝から。ね。
 今月今日で一心に頼めい、おかげは和賀心にあり。もう今月今日只今を、はー、和らぎ賀ぶ心にならせて下さいと、朝の御祈念の御理解を思い出さして頂いて、精進しておるのだけれども破れる。また失敗する。破れ饅頭だ。けれども、その心根が素晴らしい。ね。今日はどうでんこうでん、いっちょおかげ頂かにゃならんといったようなものじゃなくてです。ね。そのおかげを自分の心の上に頂こうとする、そういう心の上にです、ね、まあ破れ饅頭的なおかげが頂かれる。
 ってもう、和賀心時代を創る運動員なんて、それはおこがましい。とても信心も出来ておらんのに、等と思わずにです。問題は自分自身が、それを本気で祈り願っておるほどしの人ならばです、そこに失敗でもいい、体験でも、様々なね、いわば体験が生まれてくる。それを話したら良いのです。
 そういう意味でです、私はいよいよ、まあそれを大きく言うと御取次成就信心生活運動に参加させてもらわなければならん。これは、しかし見易いごとして難しい。難しいごとして、えー、だいたいが見やすい事なんですけれどもね、ほんとは。けれども、それが一向に発展しない。だから、私は、和賀心時代を創るといったような運動が展開して、皆さんが、事実おかげを受けてね、それを自分の周囲に広げていこうとする。ね。信心を身に付けて下さったら、神様のお喜びがそこに、破れ饅頭的なおかげになってくると思うのです。
 えー、あれもお話を、これもお話を、まとまりのつかんお話でございましたけれども、ね。どうかひとつ、御取次成就信心生活運動。それが長年続けられておるけれども、それがひとつも、ね、進展していない。いや、むしろ金光様の御信者が減っとるぐらいだと最近は言われておる。だからせめて、合楽の、いわば御神縁を頂いておる人達がです、ね、この生き方でいきゃ、絶対広がるというものを体得させて頂いての日常、信心生活でなからなければならんと思うのですね。     どうぞ。
    
                     
                              入力者  末永 清和